敵視する

上京してきて、「こっちに全然友達いなくて〜」とあたかも友達たくさんいるけどたまたまこっちにいないだけの感じを装っていますが、本当は地元に帰ってもいません。ただ小さい頃から過ごしてきた土地なだけに中途半端な顔見知りはたくさんいて、出掛けた先でばったり会ったりするのが気まずい&窮屈だと感じたのでトーキョーにやって参りました。彼氏さんとは順調でございます。そんな話はさておき、先日この映画を観てきました。

原作全く知らないし、ただ誘われたから行っただけという感じだったけど、この男の子が心を閉ざして人と関わろうとしないところがつい自分と重なってしまった。私も人と目を合わせるのが怖くて、大学生のときもキャンパス内を歩くときはいつも下を向いていた。未だに道を歩いていて前から人が来ているときや電車で座っているとき、視点のやり場に困る。携帯なんて見ても別に何もないのにずっと携帯を見てる。でも周りを見渡せばみんな携帯とにらめっこしていて、本当はみんな私と同じような状況なんじゃないかとか考えたらちょっぴり面白くなったりもする。

社会人になって初めて仕事を休んだ。毎日仕事に行くのが憂鬱で、吐きそうになることだってあったけれどそれでも遅刻もせず出勤していた。なのにその日は風邪気味だったのもあるけど、「今日は休もうよ」と私が私に語りかけた。それはズルとか怠けとかそういった類の感情ではなくて、なんだろう、例えるならば警告のようなものに感じたのです。危険信号を発しているのだと思ったし、すぐに休みの連絡を入れました。その日はびっくりするくらい寝たけれど、風邪がよくなることはなかった...

そして今日、休み明け。みんな私が休んだことを悪く思っているに違いない。あいつだけ楽しやがって。そんな風に思われているはずだ。なんて考えながら小さくなって会社に向かった。とは言え私が休んでも埋め合わせはいくらでもできるし、困ることなんて何もないので出勤しても特に何かを言われることはなかったけれど。本当に何も言われなかった。挨拶すらなかった。(それはいつものことで、誰かが挨拶をしても一人も返さないのでずっと不思議でしょうがない)ただ二人だけ「体調大丈夫ですか?」と声をかけてくださった人がいて、その二人だけは味方で、あとは全員敵のように私の目にはうつってしまった。そうやって何かの基準で私はいつも全ての人に対して敵か味方かを無意識に判断していると思う。デフォルトは全員敵で、自分に良くしてくれたり、話しかけてくれたり、人間性に魅力を感じたり、そういう私の心を動かす何かがあれば味方になる。でも、一度味方になっても「この人そういうことするんだ...」みたいなことがあればすぐ敵に戻る。誠に自分勝手な奴である。

そんな私の性格が、『聲の形』の男の子(名前がどうしても思い出せない)の状況とすごくすごく似ていた。常に私の周りは敵かごく僅かの味方で成り立っている。みんなが味方だと思うことができればもっと楽に生きられるはずだということはわかっているけれど、なかなか難しい。

全然話は変わって、このブログの記事に書いてあることが本当にすべてその通りすぎて私は首がもげるほど頷きました。
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私はいまこのような仕事をしているけれど、ずっとこの仕事をしていきたいとは思っていない。私が今住んでいるところは自由に生きている雰囲気を放っている人がとても多くて(実際にそうとは限らないけれど)色んな生き方があるはずなのに、どうして私はこんな普通のつまらない会社員なんかをやっているんだろうとか訳のわからないことを考えてしまったりしている。お給料をもらっても、自分で稼いだお金だという実感が正直全くもってない。そんなもんなんだろうか。こんなことで悩むのは贅沢なんだろうか。とにかく今の仕事が自分にとってあまり良くないということはわかる。

自分にしかできないことを探そうと思ったけど、こんなにたくさんの人間がいるこの世界でそんなことは到底難しいので、自分でもできること、したいと思えることを探すことにした。そしていくつか見つけることはできた。まだまだ勉強不足だけれど、それがいつか仕事として繋がっていければいいなと思う。

どうでもいいけど同期の子が目上の人に使う「~しちゃっていいですか?」という敬語がすごく気になる。敬語なのかもよく分からないけど。なんだか気持ちが悪いなと思ってしまう。