素人のカメラ

 お盆。わたしは動物アレルギーなのに動物が好きで、かわいい柴犬を飼っていた。飼うっていう表現はあまり好きではないけど。猫とかうさぎだけだと思っていたけど、やっぱり犬にもアレルギー反応があって、ましてや柴犬は意外と毛が異常に抜けるのでそれにやられていつもくしゃみばかりしていた。三か月前に愛犬が亡くなってからは、くしゃみを連発することがあまりなかった。それが、ついこの間、13日と14日だけ異常にくしゃみが止まらなくて体がものすごく気怠くなり、久々にここまでなったな〜とぼんやり考えていたときに、ふと“お盆”という言葉が頭に浮かんできた。もしかして、帰ってきてくれたのかもしれないと、そんなのただの偶然かもしれないけれど、そう思うことにした。くしゃみは体力を消耗するしすごくしんどい。でも今はそれがちょっと恋しい。
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 トイカメラが欲しくて、ネットでずっと調べていた。ある程度目星はついたのだけど、トイカメラなのに価格が全然トイじゃなくて、本当にいいの?と思いとどまった。本当はフィルムカメラが欲しいけれど、そんなに本格的にやるつもりはないし、お金もかかるしで、デジカメ一択。これが恐ろしいもので、調べれば調べるほどやっぱりどうしても良いものに辿り着いてしまう。だけどわたしが求めているのは綺麗な写真ではなく、ぼんやりとしたどこか懐かしい写真だったので、いっそのこと古いデジカメとかでいいんじゃないかと思い始めた。
 そこで思い出したのが、高校生のときにおもちゃ感覚で買った安いデジカメ。その当時は一眼レフが欲しいけどお金がないから~という理由で購入したので、実際に撮影した写真を見た時に結構ショックだった。値段相応なんですけどね。そのカメラを部屋の隅から引っ張り出して、改めて見てみると、なんとこれが結構いい感じだった。

 1400万画素なのでiPhoneとそこまで変わらない。わたしの撮影が下手なのもあるけれど、ぼけてるし、ノイズも結構ある。だけどそれが寧ろなんか良かった。加工したらもうちょっと味が出そう。トイカメラを買う手前まで行っていたわたしだけど、正直これで良いよねとなったのが現状です。当時はやっぱり安いカメラだとしか思わなかったのに、今ではそれが魅力に感じる。同じものと同じ人間でも、タイミング次第で全く違うものになるのが面白い。

 車のライトに照らされたアスファルトが少しだけ虹色になっていて、思わず見惚れていたら車にひかれそうになった。虹ができる仕組みが未だによく分からないながらも、光の屈折がどうのこうのということはなんとなく理解していて、だけど車のライトに照らされたアスファルトにまで虹ができることは今日まで知らなかった。我ながら面白い発見をしたな、と思った。そう思って喜んでも、実はほかのみんなにとっては当たり前のことだった、というような現象がよくあって、自分の無知さに逆に悲しくなったりもする。
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 私はどうしてこうも遠回りをしてしまうのだろう。人生において、回り道だってときには必要とはいえ、私は節目節目に大きな回り道をしてしまっている。たくさんの分かれ道を前にしたとき、普通ならどの道が一番近道になるか、確実に目的地へ辿り着けるかを判断して進む。だけど私は、いったんすべての道に進んでみて間違っていたら引き戻す、の過程を経ないと不安になるから、遠回りになってしまう。他の道に進んでしまっている間に、正しい道が崩れて消えてしまうなんてリスクは考えていないのが私の悪いところだ。一度そうなってしまったらもう取り返しがつかないのに。単純に頭が悪いのかもしれない。今は私は大きなふたつの分かれ道のうち片方へ進んでみたけれど、もう片方が閉ざされそうになっていて、進もうか引き戻そうかの境地に立たされている。人生は選択の連続らしい。天秤座らしく、いつだって私は何かと何かを天秤にかけて眉間にしわを寄せている。選択はむずかしい。
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 コメダさん50周年おめでとう。モーニングのトーストがだいすきです。

 純粋無垢とはこのことだ、という思い出がある。わたしがまだ小学生だった頃のある日、友達の友達であるSちゃんが“昨日の放課後に異世界へ行って甘い蜜をなめた。おいしかった。”と言いだした。わたしは興味津々で、異世界にはどうやって行ったのかを問いただしたところ、帰り道の途中にある草むらの中に小さな入口があるとのことだった。その子とは帰る方向が同じだったので、場所はすぐに分かった。さっそくその日の放課後にそこへ行ってみると、どう見たって何の変哲もないただの草むらだった。それをSちゃんに伝えると、入口は時間帯や日によってあったりなかったりすることが分かった。それからわたしは何度もそこへ足を運んだ。なにもない。いつもどこにもなにもない。わたしも甘い蜜をなめてみたい、その一心で草むらの中を探した。結局いつまで経っても見つからず、Sちゃんからは曖昧な情報しか得られず。そこでようやく、あれは嘘だったのだ、と気付いた。一生懸命異世界への入口を探していた記憶がよみがえり、自分を恥じた。その記憶にはそっと蓋をした。異世界へ行くなんて、大人になったわたしが聞いたら笑っちゃう。あるいは、へえ〜すごいね~なんて言いながら適当に聞き流すようなことだ。だけど、わたしにはできなかっただけで、Sちゃんは本当に異世界へ行っていたかもしれない。そうやって考えてみるだけでも、なんかおもしろい。考えるだけなら誰にだってできる。歳をとるにつれて、ありえないだのそんなの無理に決まってるだのと言いながら笑って終わらせてしまうことが増えてしまっているように思う。もうすこし柔軟に、おもしろく、広く、思考を巡らせられるようになりたい。